日本漫画の会ブログ

世界風刺遺産・風刺ユーモア大好き人間の集まりです。

2013年03月

世界や日本の今を、風刺とユーモアの個性的な発想と自由な形式で、漫画の可能性を追求する会です。

名画とパロディカートゥーン(10)

20:クールベ/オルナンの埋葬
 クールベは19世紀フランスの絵画界において写実主義を先導した画家である。彼の画風はバルビザン派とともに、ロマン主義から印象主義への橋渡しをするものだった。
 
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「オルナンの埋葬」ギュスターヴ クールベ作
「ジャーナル プール リール」 1851年3月7日号 ベルタル作
 この漫画は教区の聖堂者二人だけを残し、たくさんの他の人物は白い涙にしてしまっている。漫画家は、ばかでかくしたクールベのサインによって、彼の異常なほどばかげたナルシズムをあらわしている。
 
21:クールベ/水浴する女たち
 
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「ル ジュルナル ポール リール 1853年」 ベルタル作
ベルタルは水浴者を有名なパリのレスラー”ラ サヴォワード”(このニックネームは彼女がサヴォワ地方出身であることを示している)に対照させている。ベルタルのキャプションはクールベの傲慢さがレスラーの頑健さに匹敵するぐらい大きいといっている。さらに皮肉をこめてこう書いている。「この絵は特別に詩的だ」
 
22:クールベ/物乞い
 
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「ル プティ フィガロ 1868年 6月7日」ベルタル作
 ベルタルはこの絵の主題が俗悪だと批判している。彼は女性を汚い洗濯袋に包みこむことで、クールベの写実主義を誇張している。
 
23:クールベ/物乞い2
 
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「ル シャリバリ 1868年6月号」 カム作
カムはクールベのメッセージをからかっている。彼のキャプションはこう言っている:この作品のタイトルは“善行”だけど、この手の絵画を貧しい人に見せるのは善行とはいえないね。
 
24:ミレー/鍬を持つ人
 ジャンーフランソワ ミレーは農業国フランスのバルビゾン派の創設者の一人である。彼は農夫を描く画家として知られている。彼は自然主義および写実主義の画家とみなされている。
 
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「ジュルナル アミュザン 1863年」ベルタル作
この漫画はドゥモラール”という名の連続殺人犯に模している。左を見てください。足が突き出ている。カムは、絵画の中の人物が凶悪犯のように見えることに気づいたのだ。
 (編集:ジャンーマリー ベルタン 翻訳:西田淑子)
 
 
 
 
 

名画とパロディカートゥーン(9)

15:ドーミエ
絵画は登録番号に従って展示されることになっているが、実際には額のサイズがいろいろなので、そうはなっていない。他人の絵の位置を羨み、不平を言うことしばしばである。                                                                      
 
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ー「見ろよ!やつらが俺の絵をどこに突っ込んだか!」
ー「おやまぁ、それで不機嫌なんだね。でも、貴殿の小さな絵はメッソニエの上にあるんだから、むしろ喜ぶべきですよ」
「ル・シャリバリ 1859年4月20日号」ドーミエ作
 
16:
サロンは床から天井まで隙間なくびっしりと絵画を展示した。
 
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サロンの額掛けレールが手の届かないほどの高さだったので、作者(カルロ・グリップ)は仲間の漫画家ナダールを気球に乗せて登場させた。*ナダールは風刺漫画家(1852「展覧会の風刺」)であるだけでなく、ジャーナリストであり、気球乗り、飛行技術研究家であり、さらに肖像写真家としてもっとも有名だった。
「ラ・ルーン 1866年5月20日号」カルロ・グリップ作
 
17:批評
展覧会の批評が当時の新聞に掲載された。これが新しい近代的な業界のはじまりだった。すなわち美術評論という分野である。
 
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サロンの美術作品はパリの新聞に広く論評された。この漫画でカムは批評家たちをからかっている。しかしそのいっぽうで、彼自身が美術批評家であるわけだ。つまり・・・彼はそのつもりであった。
「作業中の批評家」「ル・シャリバリ1853年」カム作
 
18:ジェローム
ジャンーレオン ジェロームは今日では”アールポンピエ”として知られている様式の絵描きであり彫刻家だった。
文字通りにいえば消防士のアートである。それは19世紀の後半の、巨大で格式ばったアカデミック絵画に対して投げかけたフランス語の嘲笑的なことばである。この侮蔑的な表現は、おおげさを意味するフランス語の形容詞”pompeux"からくるダジャレである。それは特に歴史的、寓話的な絵画をさしている。それらの絵に登場するギリシア風な、またはナポレオン風なキャラクターがかぶっている馬の尻尾の毛がついたヘルメットが当時のフランスの消防士のそれに似ていたからである。
 
この漫画で、ベルタルはジェロームの作品を非常にもったいぶった誠実さのないものとして批判している。愚かなブルジュアの観客はこの場面を叙事詩とみなしているのである。
 
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「闘鶏」
1846年ジャンーレオン ジェローム作 1847年のサロンに出展
「ル・イラストレーション 1847年5月15日号」ベルタル作
 
19:ドーミエ/クールベ
19世紀、おもしろみのないきれいきれいな、つまりアカデミックな質の高さを誇る作品ばかり選ぶ審査委員会に対してアーティストは不満をつのらせていた。しかしながら、この種の作品はたくさん見られるけれど、クールベやマネのような過激なアーティストの絵は審査員によってはねつけられるか、いわゆる”ご立派な”大衆によって拒否されてしまうのである。
 
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「中産階級になれって言ってんじゃないよ。せめてこのクールベの作品を賞賛しようよ」
 
サロンでのスケッチ「ル・シャリバリ1865年6月22日号」ドーミエ作
(テクスト&画像 ジャンーマリー ベルタン、翻訳西田淑子)

名画とパロディカートゥーン(8)

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これらの写真はフランス国芸術庁によってサロンでの購入絵画の記録のために撮られたものである。1864年の購入作品数は154点であった。
1864年から1901年の間に開かれた33回のサロン(官展)での入手作品はこのような形で記録された。
いくつかの作品が姿を消したことがあったので、これらの写真が唯一の証明だったのである。
 
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サロンには彫刻やメダルも展示され、フランス国によって買い取られた。
 
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もちろん漫画家は彫刻をもからかいの対象にした。その姿かたちだけでなく、題目さえも笑いものにしたのである。
1863年「ル・シャリバリ」掲載、カム
 
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右:カルポー作「ウゴリーノ」 *ダンテ「神曲」よりウゴリーノ伯爵の苦悩を描いた作品。裏切りの罪により孫子とともに幽閉され、飢えのために孫子の肉を食ったといわれている。オルセー美術館所蔵
左:ベルタル 1863年「ジャーナルアミュザン」掲載
 
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展示に先立って、応募作品が審査された。たくさんの作品が審査員によって落とされた。彼らの審査基準は美術的視点のみならず、むしろ保守的な批評眼に依拠したものであった、と言わねばならないだろう。
 
サロンでの展示の前に、それらの絵画は展示に値するかどうか決定する審査会に提出された。
1853年「ル・シャリバリ」掲載。カム
 
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「落選作」
”このありがたくもねぇ国家さんよ、おまえがオレのこの作品を手に入れる日はこないのさ”
1841年「ル・シャリバリ」掲載、ドーミエ

名画とパロディカートゥーン(7)

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 1832年の最初の刊行から、シャリバリは一面を使って連日漫画を掲載していた。
 週末には、時々の事件を題材にした漫画とコメントをカムが載せていた。
 サロン開催中は、アートがユーモアマガジンのみならずまじめな新聞をも飾る大きな話題だった。
 
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  一生を通して、カムはおよそ200冊の漫画本を発行した。最初の本が出版されたのは1839年である。
  1851年から1878年にかけて、サロンはカムに、これをテーマにするイヤーブックの発行の機会を与えてく  れた。
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  カムの死後長い間、サロンをテーマにする漫画は現れなかった。
  このページは1883年6月23日号の週刊漫画誌「ラ カリカチュール」に掲載されたものである。
  アルベルト・ロビダ作
 
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 おおかたの人々にとって、サロンはただの娯楽や社交の場だったが、一部の金持ちは絵画を買いに来ていた。
フランス国は多くの作品(毎年100点以上)を購入することによってサロンを支えていた。(画像&テクスト:ジャンマリー・ベルタン、翻訳:西田淑子) 
 
 
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